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井伊直虎(いいなおとら)って、どんな人?

写真:直虎が治めた井伊谷の現在の風景

イラスト:マップ

「井伊直虎」という人物をご存じですか。
井伊直虎は、戦国時代、井伊谷(現・北区引佐町)を本拠地として栄えた井伊家の当主を務め、優れた政治手腕によって、一族断絶の危機を救った人物。その名前から、勇ましい戦国武将の姿を想像する人も多いと思いますが、井伊家22代当主(※1)井伊直盛の“一人娘”、そう、実は女性なのです。

昨年の8月、平成29年の大河ドラマが、この直虎を主人公とする「おんな城主 直虎」に決定しました。
これまで、大河ドラマの舞台となった地域には、毎回多くの観光客が訪れています。本市としても、浜松を全国に発信していく絶好のチャンスとして、全国から多くの皆さんに足を運んでもらい、地域や観光の活性化につなげていくことができればと考えています。そのためにも、まずは市民の皆さんが「井伊直虎」を知り、地域一丸となっておもてなしの機運を高め、浜松や直虎を全国にPRしていきましょう!

※1 井伊氏の系図に諸説ありますが、ここでは22代とします。

井伊家を滅亡の危機から救った“おんな城主”

「直虎」の名前は知っていても、その人物像や功績については、知らない人も多いと思います。
今回の特集では、直虎の一生や、彼女を支えた周囲の人物との関係など「直虎」を皆さんに知っていただくため、その歩みや、周囲の人物との関係を紹介します。

直虎の誕生

平安時代から、井伊谷(現・北区引佐町井伊谷)を本拠地とし、この地域を領主として治めてきた井伊氏。この井伊氏の22代当主・井伊直盛に、一人の娘が生まれました。この娘が、後に井伊家を断絶の危機から救い、井伊直政(徳川家康を支え続け“徳川四天王”の一人とされた人物)の養母となる、井伊直虎です。
直盛には息子がいなかったため、自身のいとこの亀之丞(のちの井伊直親)をこの一人娘の許嫁(結婚の約束をした相手)とし、井伊家の跡継ぎとするつもりでした。

亀之丞との別れ、そして出家

ところが、1544(天文13)年、亀之丞の父・井伊直満とその弟の直義が、井伊家を支配していた今川氏に謀反の疑いをかけられて殺害されてしまいます。さらにわずか9歳の亀之丞も、命を狙われ、身を隠すため命からがら信州(現在の長野県)へ。許嫁から引き離された直虎は出家(※2)し、井伊家の菩提寺である龍潭寺の南渓和尚から「次郎法師」の名を与えられました。

※2「出家」…俗世間を離れ、髪を切り落とし僧侶や尼となり、仏道の修業を行うこと。

図:直虎と井伊家ゆかりの人物関係図

写真:現在の井伊谷城の全景(写真左)と、城の頂上から見た井伊谷の風景(写真右)

現在の井伊谷城の全景(写真左)と、城の頂上から見た井伊谷の風景(写真右)

井伊氏の居城「井伊谷城」

現在の引佐協働センターや引佐図書館の北側にある「城山公園」。直虎のころの井伊氏は、この丘陵の麓にあった居館と井伊谷城を本拠地としました。

“おんな城主"井伊直虎 その波乱に満ちた生涯とは…

亀之丞の帰郷と、跡継ぎ「虎松」の誕生

1555(弘治元)年、亀之丞が11年ぶりに井伊谷へ帰ってきました。
しかし、出家していた次郎法師は結婚することができません。
亀之丞は次郎法師の父・直盛の養子となって「直親」と名乗り、井伊家家臣・奥山朝利の娘と結婚。その後、待望の男児「虎松」(後の井伊直政)が誕生しました。

肉親や家臣たちの相次ぐ戦死

しかし、それと前後して、井伊家では、悲劇が立て続けに起こりました。
1560(永禄3)年、今川義元に従って尾張(現在の愛知県西部)へと出陣した直盛が、桶狭間の戦いで戦死。さらに、2年後の1562(同5)年には、井伊家当主を継いでいた直親が、今川氏真から“徳川家康に味方をしている”と疑われて殺害、さらに曾祖父直平や、多くの家臣たちが相次ぎ戦死…。こうして井伊家を継ぐ男子は、わずか4歳の幼い虎松ただ一人となってしまいました。

女城主「井伊直虎」の誕生

1565(永禄8)年、次郎法師は、幼い虎松、そして井伊家を守るため、南渓和尚と相談し、大きな決断をしました。
「直虎」と名乗り、井伊谷城の城主となる決心を固めたのです。
こうして“女城主”となった直虎ですが、すぐに困難が待ち受けていました。今川氏真が、井伊谷周辺に徳政令(※3)を出したのです。これを受け入れてしまったら、井伊家の家臣や領内の経済は混乱してしまいます。

※3「徳政令」…民衆を救うため、大名などが寺社や商人へ借金の帳消しを求めること。このときの徳政令は、領内を混乱させることで井伊家の力を弱めることが目的であったといわれている。

虎松を徳川家康に合わせ、家臣に

直虎や南渓和尚たちは、井伊家を復活させるため、遠江の領有を安定させていた徳川家康に従うことを決めました。
1575(天正3)年、鳳来寺に預けていた虎松を連れ戻し、彼の母の再婚先である松下一族のもとへ養子に入れました。そして、松下氏の力を借りて、浜松城にいた家康へのお目見え(※4)を計画します。家康は、15歳の虎松を小姓(※5)として迎え入れ、万千代という名を与え、井伊谷に領地を持つことを許しました。こうして、直虎は、井伊の家名を再興させることができたのです。

※4「お目見え」…身分の高い人に会うこと。
※5「小姓」…武家で主人の身の回りの世話をする少年

今なお、注目を集める直虎

井伊家断絶の危機を寸前で乗り切った直虎。家康の家来として、また井伊家を再興するために活躍する万千代を見守りながら、1582(天正10)年8月26日、その生涯を閉じました。40数年の生涯だったといわれています。
井伊家歴代当主としては数えられていない直虎ですが、井伊家の歴史と戦国時代の遠江を語る上で欠かすことのできない人物として、今なお注目されています。

井伊直虎の生涯

年代 出来事
  誕生(生年月日、幼名等不明)。父は井伊直盛
1542 (天文11) 祖父・直宗が戦死
1544 (天文13) 大叔父の直満、直義が今川氏に殺害される。
1545 (天文14) 許嫁・亀之丞が信州に身を隠す。
1555 (弘治元) 亀之丞が信州から帰国。井伊家当主の養子となり、直親と名乗る。家臣の娘と結婚。
1560 (永禄3) 父・直盛が桶狭間の戦いで戦死。直親が井伊家当主を継ぐ。
1561 (永禄4) 虎松(後の井伊直政)誕生。
1562 (永禄5) 井伊直親、今川氏に殺害される。
1563 (永禄6) 曾祖父・直平が今川氏の命で出陣するも急死。
1564 (永禄7) 井伊谷城代・中野氏と新野氏が戦死。
1565 (永禄8) 次郎法師、「直虎」を名乗り、領主に。4歳の虎松の後見人となる。
1566 (永禄9) 今川氏から出された井伊領への徳政令を凍結する。
1568 (永禄11) 今川氏真が発布した徳政令を直虎が同意。直虎の地頭職は廃止され、家老小野但馬守が井伊領を支配。直虎は井伊谷城を出て、虎松を鳳来寺へ預ける。
徳川家康が井伊谷城を接収。
1572 (元亀3) 仏坂の戦い、三方ヶ原の戦い
1575 (天正3) 鳳来寺から帰還した虎松を、徳川家康に引き合わせる。
虎松が家康の家臣となり、万千代と名乗る。
1582 (天正10) 直虎死去。

直虎の花押

徳政令を実行したことを示す文書(蜂前神社〈北区細江町中川〉所蔵)に書かれた、直虎の花押(現在でいうサイン)。当時、花押は身分の高い男性が用いるもので、女性が使用することはほとんどなかったため、大変貴重な文書として保管されている。

写真:直虎の花押

広報はままつ2016年4月号特集より引用

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