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女城主 井伊直虎特集 - 井伊家のなりたち

激動の時代の中、幾多の苦難に翻弄されながらも、その名を全国に轟かせていった名門・井伊氏。遠江600年、近江400年にわたる「なりたち」の一片を紐解きます。

寛弘7年(1010)

画像:龍潭寺

井伊氏のはじまりは、平安中期 寛弘7年(1010)、遠江(静岡県西部)井伊谷の井戸から誕生したとされる共保を初代としています。

共保は、志津城(西区村櫛町)の城主 藤原共資(ともすけ)の養子となった後、井伊谷に移り姓を「井伊」とし、旗印を井桁に、家紋を出生時井戸のかたわらに咲いていた橘の花にします。井伊谷城を本拠としてからは、この地方の国人領主として栄え、南北朝鮮時代には後醍醐天皇の息子 宗良(むねなが)親王を迎え、足利幕府に対抗する南朝勢力として奮戦します。戦国時代になると、井伊氏は今川氏の支配下に置かれ、井伊氏に受難の波が押し寄せます。

永禄3年(1560)

当主 伊井直盛と大勢の家臣が桶狭間の戦いで戦死、永禄5年(1562)には今川氏によって、直盛の跡をついだ直親が誅殺されます。
翌年、直親の祖父 直平も死去し、井伊氏の男子は直親の忘れ形見である虎松(後の直政)のみとなります。
この危機に登場したのが、直盛の一人娘、のちに井伊直虎を名乗る次郎法師です。直平の死後、幼い虎松の後見人となり、さまざまな困難に立ち向かいながらお家存続の灯を守り抜きます。

天正3年(1575)

次郎法師は15歳となった虎松を徳川家康へ仕えさせ、井伊氏再興のきっかけを作ります。直虎の意思を継いだ虎松(万千代)は家康のもとで数々の功績を打ち立て、元服して直政と名乗ってからは徳川軍の主翼を担う「徳川四天王」の一人と称されるまでになります。
そして、家康が天下統一を果たすと、近江(滋賀県)佐和山城主となり、直政亡き後は、息子たちが居城を彦根城に移し、30万石(※)の近江 彦根藩主として繁栄の基礎を築いていくのです。

その後も井伊氏は代々で江戸幕府を支え、要職を歴任していきます。幕末期の大老 伊井直弼は、日本の開国近代化のきっかけを作ります。
幾多の苦難と繁栄によってつながれてきた井伊氏1000年のなりたち。紡いできたこれらの歴史は、徳川家康ゆかりの地と同じく、「出世の街 浜松」に通じるものがあります。

※彦根藩の石高30万石に、江戸幕府からの預かり米5万石を加えて35万石とすることもあります。

浜松市「井伊直虎GUIDE BOOK 井伊家ゆかりの地」より引用

井伊共保公出生の井戸

井伊家初代共保公が出生したという伝説のある井戸です。龍潭寺から南に一直線に伸びる参道を下ったところにある、白壁に囲まれた大きな石組みの井戸。平安時代(1010年)、井伊家の始祖、共保公が誕生したといわれる場所です。

画像:井伊共保公出生の井戸1

画像:井伊共保公出生の井戸2

アクセス情報
浜松市北区引佐町井伊谷1989(龍潭寺門前)
JR浜松駅から遠鉄バス 奥山行で約45分 龍潭寺より徒歩約5分

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